最高裁判所第二小法廷 昭和45年(あ)2524号 決定 1971年10月22日
主文
本件各上告を棄却する。
理由
弁護人天野末治、同白井俊介、同大矢和徳連名の上告趣意のうち、憲法二一条、三七条一項、八二条違反をいう点について。
所論は、本件各ビラないしはがきが、いずれも、いわゆる松川事件第一審の審理および判決に対する正当な批判をしたにすぎないものであることを前提とする違憲の主張である。しかし、原判決の認定した事実によれば、すでに判決の言渡しを終えた第一審裁判長に対し、これを脅迫し、あるいは、誹謗してその名誉を毀損し、辞職を要求することが適正な裁判批判にあたらないとした原審の判断は相当であるから、所論違憲の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。
同上告趣意のうち、判例違反をいう点について。
所論は、原判決が所論の「真実は必ず勝つ」と題する冊子などの諸資料が所論判例のいう確実な資料・根拠にあたり、したがつて誤信したことにつき相当の理由があることを前提として判例違反を主張するものである。しかし、右第一審裁判長長尾信が、松川事件関係被告人らの無罪を知りながら、外国権力に屈服して裁判の独立を放棄し、故意に死刑を含む有罪判決をした旨の名誉毀損の摘示事実に関し、被告人隠岐尚一、同加藤正一、同三輪晴雲が所論「真実は必ず勝つ」などの諸資料を読み、さらに被告人加藤正一において松川を守る会の責任者として現地調査に参加し、同事件関係被告人の歩行不可能を信じ、あるいは、スパナによるボルトの緩解作業が不可能だと考えるなどの結果、これを真実と誤信したとしても、これらの資料が現に係属中の刑事事件の一方の当事者の主張ないし要求または抗議に偏するなど断片的で客観性のないものと認められるときは、これらの資料に基づく右誤信には相当の理由があるものとはいえない。したがつて、これと同趣旨の見解のもとに、右資料をもつて、いまだ右裁判長を「人殺し裁判長」あるいは「売国奴」とののしるに足りる確実な資料・根拠にあたらないとして右被告人らの誤信に相当の理由がないとした原審の判断は正当であるから、所論判例違反の主張は、その前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。
同上告趣意のその余の部分および被告人隠岐尚一、同加藤正一、同三輪晴雲の各上告趣意について。
所論は、いずれも事実誤認の主張であつて刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。また、記録を調べても、同法四一一条を適用すべきものとは認められない。
よつて、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する(岡原昌男 色川幸太郎 村上朝一 小川信雄)
上告趣意
原判決には憲法第二十一条及び第八十二条第二項、第三十七条第一項から導き出される裁判批判の自由を侵害しており、かつ最高裁判所昭和四四年六月二五日判決に牴触し、更に原判決には原判決に影響を及ぼすこと明らかな重大な事実の誤認があつて、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するから破棄さるべきである。
一、憲法第八十二条が公開裁判を受ける権利を国民に保障しているのは、夫れが裁判の公正を担保する制度的保障として不可欠のものであることを認めたものに他ならない。
従つて公開裁判の保障がその当然の帰結として裁判批判の自由の保障をも含んでいることは明らかである。何故なら公開裁判の保障は裁判批判の自由と結合することによつて初めてその目的である裁判の公正を確保出来るからである。この故にこそ裁判批判の自由は正に憲法上の権利に他ならず、従つて裁判批判活動につき名誉毀損、脅迫の成否を論ずる場合にも右の裁判批判の自由の保障の立法趣旨は充分尊重されなければならないのである。
一方、名誉毀損に関し、摘示事実について真実の証明がない場合においても、行為者がそれを真実と誤信し、またその誤信したことについて確実な資料、根拠が存する場合には違法性を欠き、名誉毀損罪が成立しないと解すべきは原判決のとおりであるが、こと裁判批判活動に関する限り右に所謂確実な資料根拠とは必ずしも学術論文乃至判例研究の如き詳細の論証を要するものではなく、それが当該裁判批判論を裏付けるに足りる一応の根拠、論証に基くものであり、かつ、右根拠が必らずしも法律に明るくない素人が、その根拠を信頼することにつき、あながち非難出来ない程度のものであれば足りると解すべきである。
何故なら、仮りに然らずとして裁判批判には常に学術論文乃至判例研究の場合と同様の詳細な論証が必要とされる場合には、結局裁判批判の自由を国民から奪うことになるからである。
公開裁判の保障は、或る公判期日に於ける裁判を傍聴した限りに於て、その傍聴した内容のみを基礎にした批判を認める趣旨であることを考えても、裁判批判の自由とは、もともと労働者の連帯感乃至は直感を含む常識に基く批判を保障する趣旨のものである。
これこそが憲法が保証した裁判批判の自由の内容なのである。
そして前述の如く裁判批判の自由の当然の帰結として労働者の連帯感乃至直感を含む常識に基き、一応の合理性をもつて裁判批判が為された時には、確実な資料根拠に基くものとして、たとえそれが誤信に基く場合でも名誉毀損罪の成立を阻却し、他の犯罪構成要件(被告人水谷謙治についていえば脅迫罪の)違法性阻却事由たる社会的相当行為に含まれるものと解すべきである。
右憲法第八十二条第二項、第三十七条第一項、第二十一条等から導き出される裁判批判の自由の内容なのである。
二、然るに原判決は、この点に関し、
「そこで、被告人らが前記各摘示事実と信じたという、その根拠について考えると、当審第七回公判における被告人加藤正一、同隠岐尚一の各供述、同第八回公判における被告人三輪晴雲の供述によれば、結局その資料とは、当審で取調べた松川事件弁護人団岡林辰雄、大塚一男、梨木作次郎名義松川事件捜査本部宛弁護人団からの公開状、松川事件列車テンプク事件についてと題する書面、東芝労働組合連合会、国鉄労働組合統一委員会名義の正義と自由を愛する人々に、松川事件の真相を訴えると題する書面、日本労農救援会出版部発行スタルリン、毛沢東えの手紙――死刑と斗う松川の労働者とその家族――と題する冊子、日本共産党出版局編、真実は必ず勝つ、世界注視のまと松川事件の真相と題する冊子、東芝労働組合連合会宣伝部名義世紀の大陰謀と斗うと題する書面、日本労農救援会愛知支部発行愛知労救ニュースナンバー二六、三一、三二、三四、三五、一九五一年三月三〇日号外などの各記載を読み、労働者としての連帯感あるいは直感によつて、松川事件関係被告人らの無実を信じ、被告人加藤正一においては昭和二六年八月ごろ、松川を守る会の責任者として、現地調査に参加し実際に現地を歩行して、松川事件関係被告人高橋晴雄の歩行不可能を信じ、またスパナによつて、ボルトの緩解実験を行つて短時間内での作業が不可能だと体験したというのであり、また前記の冊子あるいは書面中には、松川事件担当裁判官らが、同事件関係被告人らの無実を知りながら、有罪判決をしたとの趣旨が記載されている部分もあるけれども、それらの冊子もしくは書面は、比較的簡単なもので、その記載内容も、一方的であるきらいがあり、同事件につき、その関係被告人らを有罪と認めた前記第一審判決、同第二審判決の各記載と対比してみるとき、同事件第一審判決に事実の誤認があるのではないかとの疑いを生ずることはともかく、長尾判事が、該被告人らの無実を知りながら、外国権力に屈服して、有罪判決を言い渡したと信ずるについての確実な資料とまではいい難く、同事件関係被告人高橋晴雄の歩行能力、スバナによるボルト緩解作業の能否等の点については、さきにくわしく説示したように、微妙な問題があつて、しかく簡単に結論を導くことが不可能と思わるし、労働者の直感といつても、これをもつて前記の摘示事実全部を信ずるについての確実な資料とは考えられない、従つて、右各資料の存在をもつてしても、長尾判事が松川事件の関係被告人らにおいて無実であることを知りながら、死刑を含む有罪判決を言い渡したとし、同判事を、人殺し裁判長あるいは売国奴と罵るに足る確実な証拠があつたとするに十分ではないと考えざるを得ない。そうすれば、右と同一の結論に至つている原判決には、何ら所論のごとき事実誤認もしくは法令の解釈適用を誤つた違法が存しないことに帰着する」
と判示し、裁判批判に学術論文若しくは専門家による判例研究にも匹敵するような確実な根拠資料を求めているから、明らかに裁判批判の自由を否認するものであり、憲法上の裁判批判の自由の保障に牴触し、憲法第八十二条、第三十七条、第二十一条に違反している。よつて破棄さるべきである。
三、仮りに然らずとしても、原判決は前記最高裁判所判例に牴触しているのみならず、原判決に影響を及ぼすこと明らかな重大な事実の誤認を犯している。
原判決は松川事件主任弁護人である岡林辰雄の執筆になる真実は必ず勝つ、世界注視のまと松川事件の真相と題する冊子等に、松川事件担当裁判官らが同事件関係被告人らの無実を知りながら有罪判決をしたとの趣旨が含まれていることを認め(事実はそれだけではなく、長尾判事が該被告人らの無実を知りながら、外国権力に屈服して有罪を言渡した事実が生き生きと描かれている)、同時に被告人加藤正一につき、昭和二六年八月頃、松川を守る会の責任者として、現地調査に参加し、実際に現地を歩行して松川事件関係被告人高橋晴雄の歩行不可能を信じ、またスパナによつてボルトの緩解実験を行つて、短時間での作業が不可能だと体験した事実をも認めながらも、松川事件第一審、第二審判決の各記載との対比のみから(被告人の裁判批判活動が為されたのは第二審判決以前であるから、第二審判決との対比を持ち出すことは許さるべきではなく、原判決はこの点に於ても原判決に影響を及ぼすことが明らかな重大な事実の誤認があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反することは明白である)長尾判事が該被告人らの無実を知りながら、外国権力に屈服して有罪判決を言渡したと信ずるについての確実な資料に当らないと判示している。
批判の対象となつた裁判に関与している主任弁護人が生き生きとした説得力をもつて訴えたことを真実だと信じてもいけないし、当該裁判の問題点について、自らが現地調査して得た原判示心証を信じてもいけないというのである。これらはいずれも被告人水谷謙治を除くその余の被告人が長尾判事が該被告人らの無実を知りながら、外国権力に屈服して有罪を言渡したと誤信したことについての確実な資料に他ならないから原判決が結局前記最高裁判例に牴触し、かつ原判決に影響を及ぼすことが明らかな重大な事実の誤認を犯していることは明らかである。そして右誤認につき原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると思料されるから破棄さるべきである。
四、被告人水谷謙治の第一審判示所為が裁判批判活動であることは文面からも明らかであるから、その動機目的において正当であることは明らかである。又同被告人の第一審判示所為は文面上むしろ稚気に類する表現が多く、その表現から逆に右文意が、要するに松川事件第一審判決に対する抗議の意思の表明に尽きることは明らかであるから、手段方法の点に於ても尚相当性の範囲を超えないものである。よつて被告人水谷謙治の第一審判示所為も又違法性を阻却すべきものであるから、原判決にはこの点に於ても原判決に影響を及ぼすことが明らかな重大な事実の誤認があり、破判決を破棄しなければ著しく正義に反することは明らかである。
以上の各理由により原判決の速かなる破棄を求める次第である。 以上
上告趣意
一、弁護人は別の上告趣意書に於て裁判批判の自由が憲法上の権利として保障されるべきであることを詳しく述べたが、右、弁護人の見解には異論の存するところであるので、以下裁判批判の自由の存在理由について、一、二、補足したい。
二、右異論の中に裁判は学問的なものであるから、高度の専門知識をもたない一般国民は裁判を批判する資格を有しないとの見解がある。成程犯罪事実の認定は厳格な証明によらなければならないとの訴訟法上の制約は存する。然し、右はあく迄も実体的真実の発見と基本的人権の保障と言うより高度の目的に奉仕するものとして確立された法則である。本件の発端となつた松川事件の差戻後第二審に於て、仙台高等裁判所が、検察官並に弁護人の反対を押切り一六〇〇通に及ぶ証拠能力を有しない司法警察員作成の供述調書などを公判廷に提出させてその中から珠玉の真実を発見し、無罪判決の決め手にしたことは貴庁にも顕著な事実であるが右の例による迄もなく裁判批判が真実の追及、発見を目的とするものである限り、被告人及びその関係者にとつては裁判の結果は何よりも重大である。真実が認められないとすれば証拠法則とは無関係に当該裁判を攻撃して反省を求めようとするのは人情の自然であり、その発言資格を専門的知識を有するものに限るべき本質的理由はない。
三、原判決は松川事件の第一審判決について誤判を主張するのであれば、法廷外で批判すべきではなく法廷に於ける弁論を通じて目的を遂げるべきであつた旨判示している。然し、法廷外の裁判批判就裁判批判運動が法廷に於て真実を立証し、無罪判決の成果をあげることに極めて密接な関連を有することを忘れてはならない。松川事件無罪判決確定につき松川裁判(救護)運動が預つて大いに力があつたことは別の上告趣意書に於いて「松川十五年」を引用して詳しく述べたとおりである。一人の罪なき者を苦しめるよりはむしろ十人の罪人を逃がした方がよいと言う、然し無罪を獲得することは、殊に難件に於いては至難である。裁判官が直接経験したことのない出来事を、如何に具体的であつてもなおかつ抽象性を免れない蓋然性の虚偽性を打破するに足りる一回限り的な具体的証拠をもつて真実を論証することだと言われるが、このような稀有な証拠を強制力もなく、資力も乏しい弁護人や被告人だけの力量でよく集め得るものではない。
正木ひろし弁護士は裁判批判運動のメリットとして共鳴してくれる多くの人々の協力によつて弁護人や被告人の独力では集め得ない有力な無罪証拠が探し求められることだと言われている。国家権力による有形無形の心理的圧迫の故に被告人側に有利な証人や鑑定人を法廷へ出すことでさえ、強力な背景の有無に左右されるのが現実である。右圧迫をはねのけて勇気ある言動を求めるためには現実には反対勢力の結集と支援がどうしても必要である。他方に於いて裁判批判は裁判官に事案の重要性乃至は問題性を強く意識せしめて慎重な審理(証拠の取捨選択、判断、経験則の適用についての慎重さを含む)を促す効果をもつ。同じ証拠を判断する場合に於ても裁判官の心構えとか、慎重さによつて結論が左右されることは必ずしも稀ではない。
八海事件についてみても、仮りにあれだけの裁判批判が行われなかつたならあそこ迄の慎重な審理が行われたかは疑問である。疑しきは罰せずと言うのが刑事裁判の原則である。裁判批判運動は審理の慎重さを媒介として右原則の完全履行を裁判官に求めるものである。
松川事件の門田判決においては被告人が犯行当時現場以外の場所にいたというアリバイに関する証拠に関して、捜査当時、拘禁されている者と拘禁されていない者の供述が全く符合しているという事実を目して、両者の間に打合せをしたという証拠のない限り、右のように符合するのはいずれも客観的に真実を述べているからであるとして、これを物的証拠であるとして、アリバイを認めた。旧刑訴的感覚の裁判であれば、犯行時から逮捕されるまで日数もあり、ましてや計画的犯行であれば取調に備えて打合せをすることは十分考えられるという推測の下に、たとえ何時何処で打合せをしたという証拠がなくても、アリバイを認めないということになつたかも知れない。しかしこのような推理も公然たる批判の眼にさらされては、その勇気を失うに違いない。裁判批判は治安維持型の裁判を近代的な証拠判断に引き戻すという効果があるともいえるのである。
四、無罪を獲得するには異常な忍耐と努力と財政的支えが必要である。その長くつらい労苦は挫折を招き易い。そのような苦難と斗う人々を激励し、法廷での斗いを継続させる勇気と財政的支援を与えるものは裁判批判に共鳴した集団(裁判批判運動)のエネルギーである。無罪判決が多くは労せずして得られるものでなく、血の出るような努力の成果としてしか獲得出来ないものであるだけに裁判批判運動のもつ右意義は大である。
五、以上の理由により、裁判批判運動の自由は制度的に保障されるべきものである。
そして前述の如く裁判批判の真価が静的な個々の裁判批判に於てよりも、むしろ動的な裁判批判運動の中で発揮されるものである以上、裁判批判運動を起し、若しくは発展させるための個々の活動(本件各被告人の所為はまさにこれに該当する)も又充分法的な保護を与えられるべきである。そして当該事件が真に無実であれば、必死になつて書かれた批判、訴えの中には素人の胸にも必ずその裁判への疑惑を抱かせる何物かが人々の共感を呼び無罪獲得運動に駆り立てるのである。そうだとすれば全記録を精査した後でなければ裁判批判を為し得ないとする見解(原判決もこの考え方にたつている)の誤りも又明らかである。従つて裁判批判について名誉毀損の成否が論ずる場合には名誉毀損一般の場合と異なり、裁判批判の重要性の故に当該批判を裏付けるに足りる一応の根拠、論証に基いておれば犯罪を構成しないものと解すべきである。 以上